【第9回】太宰治の「お伽草子」を読んだ話

 前回の記事で感想を書いた「月がきれい」というアニメでは、太宰治の本に書かれている文章が主人公のモノローグの中でたびたび引用されていた。アニメの最終回で引用されたのは、「人間失格」の「恥の多い生涯を送って来ました」である。「人間失格」を読んだことがない人も、どこかで一度は耳にしたことがあるかもしれない。僕は中学生の頃に「人間失格」を読んだことがあった。もう内容はほとんど忘れてしまっているが、「ワザ。ワザ」という部分だけは今でも強く記憶に残っている。

  「人間失格」を読んだ後、僕はもう一度太宰治の本を手に取ることがなかった。自分に合う作家と合わない作家というものがあると思うのだけれど、太宰治は自分に合わない作家だと思ったからだ(走れメロス人間失格だけを読んでその判断を下したのはさすがに早合点だと思う…)。しかし、「月がきれい」を見たことで、僕はもう一度太宰治の本を手に取ってみようという気持ちになった。僕は自分が見た作品に影響を受けやすいところがある。

 アマゾンで調べると、太宰治の全集のkindle版が200円で買えることが分かったのでさっそく買った。さすがに全集が200円というのは安すぎるような気もしたけれど、太宰治の死後からは既に50年が経っている。そう、著作権はもう切れているのだ。Kindleで全集を開くと、目次には作品のタイトルがずらりと並んでいた。僕はどれから読むか迷ったが、とりあえずタイトルに見覚えがあった「お伽草子」を読むことにした。

 「お伽草子」は、太宰治が日本の昔話を独自の解釈で再構築した短編集である。収録されている短編は「瘤取り」「浦島太郎」「カチカチ山」「舌切り雀」の4編だ。太宰治は「桃太郎」を書いて5編にするつもりだったらしいが、「舌切り雀」の冒頭で「桃太郎」を収録しなかった理由を数ページにわたって書いている。本書が最初に発売された年は1945年だそうである。1945年というと第二次世界大戦終戦の年である。そんな時代背景もあってか、「お伽草子」は防空壕の中で父親が自分の子供たちに昔話を語るというシチュエーションになっている。僕は今まで太宰治のことを夏目漱石と同じ時代に生きていた文豪だと思っていたがそれは大きな勘違いであった。

 「お伽草子」に収録された4編の中で僕が一番面白いと思ったのは「浦島太郎」である。自分は優れた人間だと思っていた浦島太郎が、亀との会話の中で人間としての至らなさを知ることになるのであるが、その会話の内容がとても良かったのだ。自分の助けた亀に説教される浦島太郎は滑稽であったが、亀は浦島太郎に対して色々と深いことを言っていた。しかし、こう書くだけでは読者の方に何も伝わらないと思うので、これは深いなと僕が感じたものを3つだけ紹介したいと思う。

 

「信じる事は、下品ですか。信じる事は邪道ですか。どうも、あなたがた紳士は、信じない事を誇りにして生きているのだから、しまつが悪いや。それはね、頭のよさじゃないんですよ。もっと卑しいものなのですよ。ケチというものです。損をしたくないということばかり考えている証拠ですよ。」

 

「自分が他人に親切を施すのは、たいへんの美徳で、そうして内心いささか報恩などを期待しているくせに、他人の親切には、いやもうひどい警戒で、あいつと対等の付き合いになってはかなわぬなどと考えているもんだから、げっそりしますよ。」

 

「人生には試みなんて、存在しないんだ。やってみるのは、やったのと同じだ。実にあなたたちは、往生際が悪い。引き返すことが出来るものだと思っている。」

 

 読者の方はどう思われただろうか。これを読んで深いなとか、表現力があるなと思われた方には、ぜひ一度「お伽草子」を読んでいただきたいと思う。僕は「お伽草子」を読んで、太宰治がもつ別の面を知ったような気がした。それと同時に、太宰治は自分に合っている作家だと思った。また、物事の一面だけを見て判断するのは良くないことだと改めて思った。全集にはまだまだたくさんの話が収録されているので寝る前に少しずつ読んでいこうと思う。