【第3回】大森靖子の歌で泣いた話

 とりあえずこの動画を見てほしい。

 もう一度言う。とりあえずこの動画を見てほしい。

 

www.youtube.com

 いかがだっただろうか?

 おそらく、動画の評価については賛否両論があると思う。

 

 僕は、ドラマや映画、漫画、アニメなどの様々なコンテンツで感動して泣いたことはあったけれども、歌を聴いて泣いたということはなかった。そんな僕がこの動画に出会ったのは、一年程前だったと思う。最近はどんなバンドや歌手が人気なのだろうかとYoutubeの動画を巡回していたらたまたま出会ったのだ。そして、この動画を観終わった時、僕は泣いていた。

 動画を観ていた時の僕は、大森靖子がギター1本だけで歌う歌にただただ圧倒されていた。僕は今までYoutubeで色々なバンドや歌手の歌や演奏を聴いたことがあったが、本当に自分の心を動かされたと思ったのはこれが初めてのことだった。

 世の中には、これは本物であるだとか、偽物であるだとか言う議論がある。もちろん、人によって何が本物で何が偽物であるかというのは違うはずである(完全に商業だけを目的としたコンテンツは偽物であると叩かれる傾向が多いように思う)。だが、少なくとも僕の中では、大森靖子のことを本物の歌手であると思った。

 

 「マツコ&有吉の怒り新党」という番組が以前放送されていた。とある放送(グループアイドルに対する怒りを取り扱った回だったはずである)で、マツコが本物の歌手は、歌っている時に、何かに憑りつかれているような感じがするということを語っていた。まあ、ある種の憑依感があるという話であったと思う。番組中でマツコが本物の歌手として例に挙げていたのは、山口百恵中森明菜だったと記憶している。では、その「憑依感」とは一体何なのだろうかという疑問が生まれてくる。

 ここで、ちょっと紹介しておきたい文章がある。これは、僕がこれからどう生きていけばいいのかと考えすぎて眠れなかったり、熱を出して寝込んだりしていた時に出会った本に書いてあった文章である(この本に出合った経緯もいつか記事にしようと思う)。

 

 勉強だけに限らず、何かの才能を持っている人物には常に孤独感が漂っている。引退する直前、私は求めに応じて山口百恵さんと2時間あまり話し合ったことがあるが、その際、私は百恵さんに、あなたが他の若い歌手と違う素晴らしい点は、あの大観衆の中にいて、自分を孤独に陥れることが出来るその心のあり方にあると思うと言ってあげた。

 ことに間奏の時にそうなのだが、他の若い歌手は、観客に作ったような微笑を送ったり、下手な踊りをやったり、腰を振ったり手を動かしたりするのだが、百恵さんはマイクロホンを静かに下げて、少しピントのあわない視線でじっとあらぬ一点を見つめているのである。それはほんの十数秒の間なのだが、百恵さんは自分の心が歌った興奮から急激にさめて行き、また再び燃え上がっていくその過程を自分自身で感じとっているのである。観衆はどうでもいいのである。いまそこにいるのは自分だけなのである。

鈴木健二『男は20代に何をなすべきか』大和出版)

 

 この文章には、「憑依感」が一体何なのかを示すヒントがあると思う。これは、この文章を読んだ僕の解釈であるが、「憑依感」とは「歌手が自分の歌う歌の世界に没頭している様子」を指す言葉なのだろう。

 歌手が自分の歌の世界に没頭すると、歌手と観衆との間には、目には見えない大きな距離が生まれる。その距離というのは、観衆とステージ上にいる歌手までの実際の距離よりもずっと大きいのだと思う。そして、その距離は、観衆に「ああ…この歌手は自分には絶対手の届かない存在なのだな」と感じさせ、それと同時に観衆は、その歌手のことを尊敬するようになるのである。偶像(idol)という言葉は、本当に本質を表していると思う。

 また、「本物」についての僕の解釈も書こうと思う。「本物」とは、「ある人の視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の五感のいずれかを通して、その人の心を非常に感動させる物(コンテンツ)のこと」である。異論は認める。

 

 僕は視覚と聴覚を通して、大森靖子の歌に非常に感動した。そして、本物の歌手が持っているとされる「憑依感」を、僕は大森靖子の中にも感じた。だから、大森靖子のことを本物の歌手だと思った。でも、ここまで書いておいて何だが本当に自分が好きなコンテンツに理由なんて必要ないはずである。なぜかは分からないけれど好きで仕方がない。それで良いのだと思う。僕はこれからも、「これは好きだ」という直感を大切にしていきたいと思う。