【第5回】「信じる」「信じない」の語源

 あの人のことを信じる、信じないみたいな話が会話の中で出てくることがある。「あの人はきっと浮気をしていないはずだわ。私はあの人のことを信じているのよ。だって昨日だって、こんな私にいつまでも大切にするからねって言ってくれたのよ。この言葉が嘘だったら…嘘だったら…私ほんと何を信じたらいいのか分からないわ」みたいなやつだ。

  この相談を聞かされる人の中には「そんなん知らんがな」と言いたくなる人もいるだろうし、「信じるか信じないかはあなた次第です」と言いたくなってしまう人もいるだろう。でも、中には「ところで…信じるの語源ってなんなのだろう?」と突然考え始めてしまい、相談内容が全く入ってこなくなってしまったという経験をされた人もいるはずだ。そんな人のために、今回の記事では「信じる」「信じない」という言葉の語源を紹介しようと思う。

 かつてモンゴル帝国ユーラシア大陸全土の支配を目論んでいた時代があった。これから書くことは、その時代のお話である。モンゴル帝国には自治区があり、チンギス・ハンの子孫である王族たちが治めていた。現在のアメリカの州制度と同じようなものだ。けれども、モンゴル帝国が大きくなっていくにつれて、チンギス・ハンの子孫だけでは手が回らなくなってしまった。そこで、モンゴル帝国にある自治区の中でも、自治区四天王と呼ばれる強大な自治区を治めていた王族たちが、新たな自治区をつくり、そこに信頼ができる者を置いて統治させることにした。

 そうしてできた新たな自治区を治める者の中に、シン・ベクという人物がいた。シン・ベクは、雑貨屋の次男として生まれたが、政治に興味を持って日々勉強し、官僚になったという経歴を持っている。彼の政治の手腕は非常に長けており、官僚になってからも着実に実績を伸ばし、やがて自治区のトップに立った。自治区のトップに立ってからは、王族の娘と結婚して2人の子供をもうけた。その2人の子供は双子で、「シン・ジル」「シン・ジナイ」と名付けられた。ジルとジナイは、シン・ベクが絶対の信頼を置いていた2頭の馬の名前である。その2頭の馬の名前を双子の子供の名前にしたのだ。

 シン・ジルとシン・ジナイは英才教育を受けて2人とも官僚の道を進むことになる。双子であることから、互いにライバル心を抱いて切磋琢磨することで2人はとても優秀な官僚になった。エリートの中のエリートである。2人の政治観は真逆ではあったものの、父親譲りの政治の手腕で人脈を広げ、官僚としての地位を確固たるものにしていった。しかし、父親のシン・ベクが病に倒れ、この世を去った時に彼らの仲は非情に険悪なものになってしまう。父親の跡継ぎ問題が発生したからだ。

 本来ならば、長男であるシン・ジルが自治区のトップに立って跡継ぎは終わる。弟のシン・ジナイもシン・ジルと年が離れていたらそのことに納得していただろう。けれども、彼らは双子である。そして、両者が父親のポジションにつきたいと考えていた。そこで、シン・ジナイは、シン・ジルを自作自演の事件に巻き込むことにした。シン・ジナイが作った人脈の中に、このような工作に長けた人物が多くいたからだ。結果的にこの策略は成功した。シン・ジルの信用はガタ落ちし、相対的に信用を得たシン・ジナイが父親の跡を継いだ。

 では、この後どうなったか。

 戦争である。

 シン・ジル派であった人たちは、シン・ジルが起こしたという事件の内容について疑問があった。というのも、その内容が、シン・ジルが多くの民衆に圧力をかけて苦しめた上で金銭を奪い、官僚仲間とそれらを共有していたというものだったからだ。シン・ジル派の人たちには、温厚な性格のシン・ジルがそのような事件を起こすとは考えられなかった。そこで、シン・ジル派とシン・ジナイ派が大規模な戦争を起こしてしまったのである。戦争は5年続き、シン・ジル派の勝利によって終わった。最終的に民衆から信用を得たのはシン・ジルであった。

 戦争から100年が過ぎると、このことは故事として語り継がれるようになった。そして、シン・ジルとシン・ジナイというのは単なる名前だけではなく、それぞれ「信用がある人」や「信用がない人」という意味を持つようになった。そして、航海術が発達して貿易が盛んになってくると、日本にもこの言葉が伝わってきた。最初は商人の間だけで使われていた言葉であった。「あのお方はシン・ジナイのようですから、あまり商談をなさらない方が賢明です」という風に使われていたようだ。この2つの言葉は商人ではない人たちにもやがて広まっていった。さらに時代が進むと、シン・ジルとシン・ジナイは人名であるということが忘れ去られて、「信じる」「信じない」という言葉だけが残り、名詞ではなく動詞として使われるようになった。

  この話を信じるか信じないかはあなた次第です。